【短編小説】集英社短編小説新人賞・もう一歩作品『ベトナムの、宵空に誓う』4
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見たいならご随意に。
人間って慣れる動物だっていうけど本当だ。
檻に入ってはや二年、すでにこの衆人監視状態は平常モードで――本当は絶対に異常だと頭のどこかでわかっているけど、深くつきつめると鬱になりそうだから考えない。
まったく母ってのは一年三百六十五日、倒れるわけにいかない難儀(なんぎ)な役回りだわー。ってことにしとこう、ははっ。
パンが焼けるにつれ、甘い匂いにつられて大量の蟻(あり)が壁際の針の穴のような隙間から吹き出してくる。
いつも数匹は歩いているのだけれど、この量の蟻がもし電化製品の中に入ると厄介なので、冷静に行列を見極めては熱湯をかけていく。
死骸をキッチンペーパーでさらい、まだうろうろしている集団にはキッチンハイターを振りかける。
大丈夫、こいつらはパンの焼成後しばらくすれば、通常の発生量に戻る。ただし蟻道があるとまたすぐ湧くから、少し後でアルコール除菌でもしておくか。
待つ間、手持ちぶさたなので、晩ご飯のおかずにしようと茄子(なす)の甘味噌揚げを作り始めたら、包丁を入れたとたん、断面に切断された謎の幼虫が見えた。
またか。
一瞬、胃に力が入ったけれど、コオロギほど強い感情は湧かない。
深い息を吐いてから切り刻んで数えたら、一個の茄子にだいたい二匹は入っている。
ため息をつくと手早く爪楊枝(つまようじ)でほじりだし、傷んでいるところはよって捨てる。
あーあ、日本の八百屋で売ってる虫無し形良し野菜が心底、なつかしい。
あれがどれだけの高級品だったか、今ならよくわかる。毎食の下ごしらえには平均三十分、それがここの平常(スタンダード)だ。米びつにはコクゾウムシが湧くし、収納棚にも有象無象がたくさん住んでいる。
一番いやなのは雨期になると巨大なゲジゲジが排水溝から上がってくることなのだが、あれはさすがにハエ叩きでも潰せなかった。
総菜を作り終え、すべての材料を密閉容器か冷蔵庫にしまい、一息ついた。
甘茄子ひとかけらでも落ちていれば、エアコンの通風口からヤモリが進入してくるだろう。三匹はこの台所をなわばりにしているんだから。
よし、残飯も漬け物用の蓋(ふた)付きバケツに入れてある。
あいつらが残飯を漁(あさ)ると、かならず大量に糞(ふん)も落としていくのだが、その糞が桜の嘔吐(おうと)下痢症――強烈なこちらの胃腸炎の元になる気がするから、確認は入念にしなければ。
パンが冷めるころには、いつのまにか見物人も消えていた。
手早くビニールに二つ、焼けたばかりのパンを入れて、ファンさんの手荷物の横に置いておく。ファンさんの九十歳になる足の悪いお母さんが、華菜(はな)のパンを気に入っているから――おすそわけで。
別に私の名前なんか忘れてしまってかまわないんだけどさ。
願わくば
『そういえば昔、けっこう律儀で見どころある人柄(ひとがら)の奥さんが住んでたよな』
『ああ覚えてるよ、あれはたしか日本人だったよなぁ』
みたいに思い返されたい。
そんなことを思いながら裸足にサンダルをつっかけ、また外へ出て行く。
三月末の正午ともなると、いくら海沿いの街とはいえ、すぐ部屋に引きかえしたいくらい暑かった。
日本の猛暑なんて子供だましだ。吸う空気まで熱くてサウナの中みたいだし、横にそびえる小山なんて水不足で茶枯れている。
真っ白な殺人光線の中、庭の立派なブーゲンビリアやプルメリアの樹は元気で良かったけれど。ガードさんたちが交代で水をまいているからだろう。
巨大な椰子(やし)も海から吹く風にそよいでいる。
門を見ると、たばこを片手にガードのおじさん一人がちょうど外壁を補修していた十代くらいの少年を呼び寄せ、実を取りに行けと指さしていた。
ああ、ガード部屋は扇風機だけだからなー。
鉈(なた)で割って中のジュースでも飲みたいんだろう。
しかし本当によく若者を使い倒す国だ。あの子、絶対ただの通りすがりだし。
その5に続く>>
【短編小説】集英社短編小説新人賞・もう一歩作品『ベトナムの、宵空に誓う』5 - Home, happy home
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