【短編小説】集英社短編小説新人賞・もう一歩作品『ベトナムの、宵空に誓う』2
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「えーずるい。桜もタイに行って象さんに乗りたい、明日行きたい、象さん象さんママぁ」
人が背後霊みたいに後ろに立った気配を感じて、華菜(はな)はすかさず軽い胃痛を押して立ち上がり、リストを手渡した。
「今日はこれをお願い」
「……卵は今日はないかもしれないよ」
面倒なのか、不機嫌そうにファンさんが言う。
「ないなら、明日でいい。でもなかったことは必(かなら)ず私に報告して」
穏やかな笑みと強いオーラを出して相手を直視する。あくまでやとい主は自分だ。年下だろうが小娘だろうが、卑屈に出れば助長される。メイドとの力関係は一度でもなめられたら終わり。国境も性別も関係ない。こういうのはもっと人間の動物的、根源的なところに根ざした感情だから。
華菜は深く息を吐いた。そうだ。主(あるじ)たる者、言うべきことはいつでもちゃんと言わなくちゃならない。
「ファンさん」
華菜はすっきりした声で言った。
「いつも、あなたの買い物の腕のおかげで娘が好ききらいなくすごせていて、本当に感謝してる。ありがとう」
そう――雇い主の中にはただ隷従だけを強いる主人も多いけれど。同じ人間なんだから、相手の態度がどうあれ礼節だって重んじなければ。踵(きびす)を返しかけたメイドは一瞬驚いた顔をし、まんざらでもないようすで部屋を出て行った。
自宅からわずか三ブロック先の一際大きな洋館――その離れを改造して運営されているのが、桜の幼稚園だった。自転車を海風になびく椰子の下に停め、娘を送り出すと、ちょうどスウェーデン人の若いママが教室から出てくるところだった。
「あら、華菜じゃない」
「おはよう、今日も暑いねー、元気?」
「元気元気。この間はシーラの誕生日パーティに来てくれてありがとう」
「こちらこそ、おまねきいただいて」
モデルのような容姿、白金髪に碧眼は親子うり二つだ。アイナは本国で美容師をしていたそうで、髪型も男子のようなばっさり短髪で、朝とはいえ日本なら真夏の昼のような太陽をさけるようにサングラスをかけた。肌は赤褐色に焼け、細かいシミが浮いている。
「それにしても、桜は水泳が上手よね」
いやいやいや。言われて恐縮する。
桜と同じクラスのシーラはおとなしい子で、自宅そなえつけのプールでもたくさんは泳がない。先週末のパーティ、主役が不在なのに、最後まで蛙(かえる)のように水中にいたのは桜だけだった。
「そういえば昨日うちの裏庭に、毒蛇が出たんだよ。青くて細い紐みたいな」
華菜(はな)はふと思い出して言った。
「ええー、それ、どう対処すればいいの」
「噛まれたら死ぬからって、うちのガードがそのへんにあった棒でめった打ちにしてた」
「うわお、子供、気をつけないと。でも棒って、そんな原始的な。他に手段ないんだ?」
「ない。……みたいよ」
のけぞるアイナに、強くうなずく。よかったこの人には会話通じる、うれしい多謝。
「もしや猿が来たってのも、お宅?」
「ううんドリスのとこ。乾期でしょ、山に食べ物ないんでおりてきたみたいよ」
あっ危ない、とアイナが突然、華菜の手を引いた。
「ほらっ、そこ! そこの塀のさかいめ、ヒアリの巣があるんだから。ぼんやりしないで!」
ぎょっとして片足を上げたまま地面を注視する。おー、これがうわさの。初めて見た、普通にいるんだ、まあ大抵なんでもいるしな、なんか思ったよりデカい。そして動きが速い。
「……これ、踏(ふ)まなきゃ大丈夫?」
「わかんない。けど駆除してくれそうにもないんだよね、子供も通るのにさー」
「まじで。私、管理人に電話しよっか?」
門の手前でもり上がっていると、咲恵(さきえ)さんが軽く会釈して通りすぎた。あれ、会話に加われば、と手で合図しても、連(れん)を送り届けたからー、とロボットのように後退していく。ああ咲恵さんはいつもこうだ。無性に口惜しい気持ちがのどまでこみ上げる。
――ねえ華菜さん、先週末のシーラのパーティ、なんで私はまねかれなかったんだろう。
週明け、理由なんかわかっているだろうに、わざわざ深刻そうな声でそう電話してきたのは、やっぱり仲間はずれにされたくないのを華菜にどうにかしてほしかったからなんだろう。
でも咲恵自身が払わなきゃならない努力だってあるはずで。だいたい誰だって、いつも通りすぎていくただの他人を自宅にまねきたくなんてないじゃないか。
「あのさ、華菜。咲恵ってちょっと依存症?」
シーラはちらりと去って行く咲恵を見た。
「いやね、ビアンカがそうなんじゃ、って。だっていつも華菜の後ろにかくれてるじゃない」
その3へ続く>>
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